ドイツ民謡「さすらい」、「別れ」など:遍歴職人の旅の歌3曲

  • 2024.03.09 Saturday
  • 21:57
 ドイツには職人の修業のための遍歴の旅を主題とする民謡が数多くある。その中でも特に有名で内容的にもよく似ている3曲を一挙に取り上げるとしよう。最初はその名も「さすらい」、本来は『冬の旅』を書いた詩人ヴィルヘルム・ミュラーの連作詩『美しき水車屋の娘』の冒頭の詩なので、有名なシューベルトの歌曲集(1823年)の第1曲として見れば、歌曲と言うべきだろう。しかし同じ詩に後に(1844年)ツェルナーという人が作曲しており、こちらの方はほとんど民謡として親しまれている。ではその原詩、カタカナ読み、ぼくの訳を見てみよう。


     Das Wandern

     Worte: Wilhelm Müller
     Weise: Karl Zöllner

Das Wandern ist des Müllers Lust,
Das muss ein schlechter Müller sein,
Dem niemals fiel das Wandern ein.

Vom Wasser haben wir’s gelernt,
Das hat nicht Rast bei Tag und Nacht,
Ist stets auf Wanderschaft bedacht.

Das sehn wir auch den Rädern ab,
Die gar nicht gerne stille stehn,
Die sich mein Tag nicht müde drehn.

Die Steine selbst, so schwer sie sind,
Sie tanzen mit den muntern Reihn,
Und wollen gar noch schneller sein.

O Wandern, Wandern, meine Lust,
Herr Meister und Frau Meisterin,
Lasst mich in Frieden weiter ziehn.

    ダス ヴァンダーン

      ヴォルテ: ヴィルヘルム・ミュラー
      ヴァイセ: カール・ツェルナー

ダス ヴァンダーン イスト デス ミュラース ルスト、
ダス ムス アイン シュレヒター ミュラー ザイン、
デム ニーマールス フィール ダス ヴァンダーン アイン。

フォム ヴァッサー ハーベン ヴィアス ゲレルント、
ダス ハット ニヒト ラスト バイ ターク ウント ナハト、
イスト シュテーツ アオフ ヴァンダーシャフト ベダハト。

ダス ゼーン ウィア アオホ デン レーダーン アップ、
ディー ガール ニヒト ゲルネ シュティレ シュテーン、
ディー ズィッヒ マイン ターク ニヒト ミューデ ドレーン。

ディー シュタイネ ゼルプスト、ゾー シュヴェア ズィー ズィント、
ズィー タンツェン ミット デン ムンターン ライン、
ウント ヴォレン ガール ノッホ シュネラー ザイン。

オー ヴァンダーン、ヴァンダーン、マイネ ルスト、
ヘア マイスター ウント フラオ マイスタリン、
ラスト ミッヒ イン フリーデン ヴァイター ツィーン。

    さすらい

     詩:W.ミュラー
     曲:K.ツェルナー

さすらいは粉職人の喜び、
さすらいを思い立たないのは
下手な職人にちがいない。

おれたちはそれを水から学んだ、
川の水は昼夜休まず
片時もさすらいを忘れない。

水車からもそれを見習う、
水車は停まるのがいやで
疲れも知らず回っている。

石臼はどんなに重かろうと
元気に輪舞を踊っている、
もっと速くもっと速くと。

ああ、さすらいよ、わが喜びよ、
親方さん、おかみさん、
おれを自由に旅させてくれ。

 歌のタイトル Wandern については説明が必要だ。これは wandern という動詞を名詞化したものだが、この詩の場合は職人が修業のためにする遍歴の旅のことだ。15世紀半ばから19世紀にかけてドイツの職人制度は厳格に整えられ運用されていき、親方になり開業するまでの過程で wandern が義務付けられた。日本の歌集では「さすらい」としているものの本当はそれが最適の訳語とは言えない。この詩の wandern は目的地こそ定まっていないが旅の目的ははっきりしている。3年ばかりの見習い(Lehrling レーアリング)を終えて職人(Geselle ゲゼレ)となった者が、さらに3年程度修業をするために適当な親方(Meister マイスター)を求めて旅をするのだ。「さすらい」ではあてもない放浪のようなニュアンスが付きまとうが他に適当な訳語が見つからないのでこれが定着したのだ。
 ミュラーの連作詩集においては粉職人という設定が筋書き上も詩の内容上も重要な働きをしているが、民謡化したツェルナー作曲の歌においては、好んで歌われるうちに職人の歌であることはさして意味のないことになって行き、wandern(徒歩で移動すること) そのものの楽しさや意義の方へ力点が移った感がある。それをよく感じさせるのが例えば1990年代ドイツの流行歌手ネーナ(Nena)によるミュージックビデオだろう。



 それに対してシューベルトの歌曲集の場合、冒頭のこの詩において粉職人であることの意味は大きい。製粉業者は元々水車が重要な動力源で、それによって石臼を回転させて製粉する技術者が粉職人なわけで、彼らは水車を目当てに川沿いに歩いて次の職場を探すのだ。それを念頭に置いてシューベルト作曲のこの歌を聴くと、職人の出で立ちをした若者が元気よくひとりで川沿いに歩く姿が目に浮かんでくるのだ。



 全20曲から成るこの歌曲集は全編「ぼく」(粉職人)の独白で進行する。川に沿って歩くうちにある水車屋にたどり着きそこで修業することになる。親方の美しい娘にたちまち恋をして胸躍る日々を送るが、やがて狩人が登場し娘の心を奪う。「ぼく」は失恋の苦しみから逃れるためについには小川に身を横たえる。ミュラーとシューベルトコンビの『冬の旅』と同じような展開だが曲想はかなり違う。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて、遍歴職人や学生の wandern を手本にしながらも、職業訓練あるいは大学教育を受けるための移動でなく、ただひたすら歩くことそのものを目的とした青年運動が起こる。ワンダーフォーゲル(Wandervogel 渡り鳥の意)がそれだ。それは古い民謡や民間伝承を掘り起こし、自然を賛美してそれと一体化する、中世風の風習に倣うなどきわめてロマン主義的な精神に基づいていた。先ほど紹介した Nena の動画では歩いているのは子どもたちだが、大らかな自然の中を集団で歌いながら歩く楽しさがよく伝わってくる。ワンダーフォーゲルが wandern に必ず携えていくのが『ツッフガイゲンハンスル』(Der Zupfgeigenhansl ギター野郎の意)という歌集だ。ツェルナーの「さすらい」の方はこうしてワンダーフォーゲルの愛唱歌のひとつとなったのである。
 
 職人の遍歴の歌をもう一つぼくの訳で見てみよう。

   Es ist ein harter Schluss

              Volkslied

Es ist ein harter Schluss,
weil ich aus Frankfurt muss,
Drum schlag’ ich Frankfurt aus dem Sinn
und wende mich, Gott weiß, wohin.
Ich will mein Glück probieren, marschieren.

Er, Herr Meister, leb er wohl!
Er, Herr Meister, leb er wohl!
Ich sag’s ihm grad frei ins Gesicht,
Seine Arbeit, die gefällt mir nicht.
Ich will mein Glück probieren, marschieren.

Sie, Frau Meist’rin, leb sie wohl!
Sie, Frau Meist’rin, leb sie wohl!
Ich sag’s ihr grad frei ins Gesicht,
ihr Speck unt Kraut, das schmeckt mir nicht.
Ich will mein Glück probieren, marschieren.

Ihr, ihr Jungfern, lebet wohl!
Ihr, ihr Jungfern, lebet wohl!
Ich wünsche euch jetzt zu guter Letzt
einen andern, der mein’ Stell’ ersetzt.
Ich will mein Glück probieren, marschieren.

    エス イスト アイン ハルター シュルス

             フォルクスリート

エス イスト アイン ハルター シュルス、
ヴァイル イッヒ アオス フランクフルト ムス。
ドゥルム シュラーク イッヒ フランクフルト アオス デム ズィン
ウント ヴェンデ ミッヒ、ゴット ヴァイス、 ヴォーヒン。
イッヒ ヴィル マイン グリュック プロビーレン、マルシーレン。

エア、ヘア マイスター、 レープ エア ヴォール!
エア、ヘア マイスター、 レープ エア ヴォール!
イッヒ ザークス イーム グラート インス ゲズィヒト、
ザイネ アルバイト ゲフェルト ミア ニヒト。
イッヒ ヴィル マイン グリュック プロビーレン、マルシーレン。

ズィー、フラオ マイストリン レープ ズィー ヴォール!
ズィー、フラオ マイストリン レープ ズィー ヴォール!
イッヒ ザークス イア グラート フライ インス ゲズィヒト、
イア シュペック ウント クラオト、ダス シュメックト ミア ニヒト。
イッヒ ヴィル マイン グリュック プロビーレン、マルシーレン。

イア、ユングファーン、レーベット ヴォール!
イア、ユングファーン、レーベット ヴォール!
イッヒ ヴンシェ オイヒ イェッツト ツー グーター レッツト
アイネン アンダーン、デア マイン シュテル エアゼッツト。
イッヒ ヴィル マイン グリュック プロビーレン、マルシーレン。

    つらい別れ

        ドイツ民謡

こいつは本当につらい別れだ、
フランクフルトを離れにゃならぬ。
きれいさっぱりこの町忘れ
あてもないけど旅に出よう。
さあ運だめしだ、出発だ!

親方さんよ、ごきげんよう!
親方さんよ、ごきげんよう!
面と向かってはっきり言おう、
あんたの仕事は気にくわん。
さあ運だめしだ、出発だ!

おかみさんよ、ごきげんよう!
おかみさんよ、ごきげんよう!
面と向かってはっきり言おう、
あんたの料理はまずかった。
さあ運だめしだ、出発だ!

ねえちゃんたちよ、ごきげんよう!
ねえちゃんたちよ、ごきげんよう!
別れのしるしに祈ってやろう
おれの代わりが見つかるように。
さあ運だめしだ、出発だ!

 「さすらい」は新しい親方を求めての旅の歌だったのに対して、こちらはこれまで修業していた親方のもとを去るに際しての歌だ。「さすらい」は作詞者、作曲者が明確でありながら民謡化したものであったが、こちらは作詞者も作曲者も不詳の純然たる民謡だ。歌詞のバリエーションも多く、確認できるだけでも7種類もある。よく歌われるのはこの全4節あるいは職人仲間への別れの言葉を加えた5節だ。フランクフルトの部分はベルリン、ハンブルク、シュトゥットガルトなど別の都市名に変わることも多いが、そのことからドイツ全土で歌われていたことが伺える。タイトル「つらい」の原語 hart には「手厳しい、冷酷な」といった意味もあるので、「別れがつらい」と言いながら、それぞれの相手につらい言葉を投げかけていると取れるところが面白い。親方は往々にして腕のいい職人よりも下手だったり、十分の手当てを出し渋ったりしたことだろう。また、同業者組合ツンフトの決まりは職人にとって厳しい面が多かった。例えば、既定の遍歴修業を終えても必ずしもすぐに親方になれるわけではなかった。都市や地方によって一つの職種の親方数が決められていたからだ。空きが出たら(即ち親方が死んだら)おかみさんか親方の娘と結婚するのがいちばん近道ということになるが、そんな気持ちになれるかどうかは別問題だ。親方が気に食わなければまた遍歴の旅に出ればよさそうなものだが、次の親方が見つかっても前より良いかどうかは分からない。だからこそこの歌の各節最後で「運試し」と繰り返しているのだ。
 クラシックの歌手で民謡をよく歌ったのは戦前ならエーリヒ・クンツ(Erich Kunz)、戦後ならヘルマン・プライ(Hermann Prey)が代表格だろう。



 この歌は19世紀に数多くの歌集に収録されたが、20世紀に入ってワンダーフォーゲルなどの青年運動の中で絶頂期を迎える。歌集『ツッフガイゲンハンスル』は1927年には150版を重ね、80万部以上売れた。1933年のナチス政権誕生以後も、政治色がなく覚えやすいメロディーのこの歌は好んで歌われ、ヒトラーユーゲントの歌集にも取り入れられた。戦後も東西両ドイツの色んな歌集に収録されたし、60〜70年代の民謡復興期にもよく歌われた。1975年以降は人気が衰え余り歌われなくなったが、80年代のフォーク界で復活、特にフォークグループ「ツッフガイゲンハンゼル」(Zupfgeigenhansel)が持ち歌にして、コンサートやツアーでしきりに歌った。彼らの歌詞は上に挙げたものとはかなり異なる。いつもぼられた行きつけの酒場の主への悪態や、職人仲間への別れの言葉が加わっている。Zupfgeigenhansel es es es und es lyrics で検索すれば英語対訳で原詩が見つかる。


 
 最後に代表的なドイツ民謡として日本でもよく知られている「別れ」を取り上げよう。これもまた遍歴職人の旅立ちの歌と考えられるが、広く流布するうちに一般的な別れの歌、あるいは軍歌に分類されるようになった。現在伝えられている歌詞は3番まであるが、後で述べる理由からここでは敢えて一番だけを紹介する。リフレインが多用され、方言と相まって歌としてはそれが面白い味を出しているのだが、ぼくの訳ではリフレインは省いて内容のみとしてある。

      Abschied         

           Volkslied

Muss i denn, muss i denn
zum Städtele naus, Städtele hinaus,
und du, mein Schatz, bleibst hier?
Wenn i komm, wenn i komm,
wenn i wiederum komm, wiederum komm,
kehr i ein, mein Schatz, bei dir.
Kann i glei net allweil bei dir sein,
han i doch mei Freud an dir;
wenn i komm, wenn i komm,
wenn i wiederum komm, wiederum komm,
kehr i ein, mein Schatz, bei dir.

      アップシート

            フォルクスリート

ムス イ デン、 ムス イ デン、
ツム シュテッテレ ヒナオス、 シュテッテレ ヒナオス、
ウント ドゥー、マイン シャッツ、ブライプスト ヒーア?
ヴェン イ コム、 ヴェン イ コム、
ヴェン イ ヴィーダルム コム、 ヴィーダルム コム、
ケール イ アイン、マイン シャッツ、バイ ディーア。
カン イ グライ ネット アルヴェイル バイ ディア ザイン、
ハン イ ドッホ マイ フロイト アン ディーア;
ヴェン イ コム、 ヴェン イ コム、
ヴェン イ ヴィーダルム コム、 ヴィーダルム コム、
ケール イ アイン、マイン シャッツ、バイ ディーア。

     別れ

         ドイツ民謡

ぼくはこの町を去らなきゃならない、
愛しい人、きみはずっとここにいるだろ?
ぼくがまたこの町に帰って来たら、
かならずきみのもとに戻るからね。
きみのそばにずっとはいられなくても、
きみを想うだけでぼくは幸せだ。
ぼくがまたこの町に帰って来たら、
かならずきみのもとに戻るからね。

 muss i dennこの歌はドイツ南西部シュヴァーベン(Schwaben)地方に伝わるものを、「ローレライ」の作曲で有名なジルヒャー(Silcher)が採録し、1827年に編纂した民謡集に収めたのが最初だった。その際にジルヒャーは、友人に依頼して書いてもらっていた2、3番の歌詞を付け加えた。1番だけでは恋人と一時別れる理由は定かではないが、3番の歌詞で男はブドウ摘みの職人で、1年後には戻って来て恋人と婚礼を挙げると約束するという極めて具体的な内容になっている。しかしぼくは2、3番を付け加えたことは蛇足だと思う 。1番だけだと男は職人修業の旅に出るのか、兵役なのか、それとももしかして大学生なのか想像はいくらでも広がる。

 19世紀半ばには早くも色んな歌集に載るようになり、19世紀末には代表的な民謡と認められて国外にまで広まった。アメリカの歌手エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)はドイツでの兵役時代にこの歌を知り、1960年 Wooden Heart と題してドイツ語も交えた歌唱をレコード化した。翌年には Joe Dowell がこれをカヴァーし、ともにミリオンセラーとなった。日本でも古くからよく歌われ色んな訳詞があるが、別れというテーマは同じでも内容はまったくの創作だ。ドイツでは第二次大戦中海軍の軍艦が出航する時に演奏されたが、今でも海軍ではその風習が残っている。1960〜70年代になると色んな歌手が歌ってヒットしたが、80年代にはツッフガイゲンハンゼルを始めフォーク歌手たちもレパートリーに加えた。
 しかし歴史上特に印象深いのがマレーネ・ディートリヒの歌唱だろう。以前「リリー・マルレーン」の項で触れたように、マレーネは自伝の「戦争」の章で「私にはかつて美しい祖国があった」というハイネの詩の1行を引用している。ハイネはプロイセン王国の封建的復古主義と軍国主義を舌鋒鋭く批判したことでパリへの亡命を余儀なくされ、その地で没した。彼は異国にあるからこそいっそう激しく胸を焦がす祖国ドイツへの限りない愛を詩にしたためた。マレーネもまたヒトラーの君臨する祖国には決して帰ろうとはしなかったが、母の住む故郷の町ベルリンへの憧憬が消えることはなかった。1945年4月30日ヒトラーが自殺しベルリンが解放されると、マレーネは故郷の町を訪れやっと母との再会を果たした。しかしながらあれほど焦がれた祖国に戻って定住することは最後までなかった。
 戦後15年も経った1960年になってやっとマレーネのドイツ公演が実現した。ベルリンの空港には時の西ベルリン市長ヴィリ・ブラントが自ら出迎えた。ブラント市長もまたナチス政権の時代には国外にあって反ナチ活動をしていた人だ。しかしヒトラーはとっくにいなくなっていたのに、マレーネを迎えたベルリンには「Marlene go home」のプラカードを掲げる人も多かった。ベルリン公演のフィナーレは「ベルリンにはまだ私のトランクがある」と始まる歌だった。「だから私はまた行かなければ / 過ぎ去った日々の幸せがすべてその中に詰まっている」と続くマレーネの故郷への切々たる思いを吐露した内容で、終わるとブラント市長を先頭に万雷の拍手に包まれたそうだ。しかしデュッセルドルフでは、「裏切り者!」と叫んでマレーネの顔につばを吐きかけた18歳の女性がいた。マレーネはこうして毀誉褒貶にさらされながらも毅然としてツアーを続け、最終地ミュンヒェンの公演では64回もの熱狂的なカーテンコールを受けたという。それでもマレーネは結局ドイツへの帰国は諦めた。ヒトラーを支持したことであれだけひどい加害と被害を経験しながらも、なおドイツ国民の中に根強くはびこるナチスの残滓を嗅ぎ取って下した決断だったのかもしれない。
 20世紀の最初の年に生まれ、第一次大戦、第二次大戦さらには祖国の分断まで経験したものの、最後には念願の再統一を見届けて1992年に他界したマレーネは、遺骸となってやっと故国に帰り母と並んで墓に眠ることができたのだ。21世紀に入って間もない2002年4月25日、日本の新聞はマレーネが「ベルリン市との和解のしるし」として、同市議会から名誉市民の称号を受けたことを彼女の顔写真入りで報じた。
 ドイツ語、英語、フランス語と彼女の歌のレパートリーは幅広かったが、この古いドイツ民謡「別れ」を歌う時の彼女の声からは、故郷を離れざるを得なかった失郷の悲しみ、自ら出て行く決意の強さ、愛しい人の住む故郷への憧れ、それらがない交ぜになって滲み出てくるように思われる。もしかすると「リリー・マルレーン」と同じく、不条理にも戦争に駆り出された兵士の心情にも想いを馳せながら歌っていたのかもしれない。だからこそマレーネは当然ながらこの歌の2番、3番は切り捨て、1番だけをあの独特の低いかすれた声で何度も繰り返し歌ったのだろう。そして何よりもドイツ語で歌うこと、それが祖国から引き裂かれた者にとって唯一祖国と一体になれる瞬間でもあったのだろう。100年前のハイネがそうであったように。



 

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