韓国の歌 『鳳仙花』

  • 2018.01.29 Monday
  • 18:18
    

     봉선화
      
      작사:김 형준
      작곡:홍 난파

울 밑에 선 봉선화야
네 모양이 처량하다
길고 긴 날 여름철에
아름답게 꽃 필 적에
어여쁘신 아가씨들
너를 반겨 놀았도다

어언간에 여름 가고
가을바람 솔솔 불어
아름다운 꽃송이를
모질게도 침노하니
낙화로다 늙어졌다
네 모양이 쳐량하다

북풍한설 찬 바람에
네 형체가 없어져도
평화로운 꿈을 꾸는
너의 혼은 예 있으니
화창스런 봄바람에
환생 키를 바라노라



    鳳仙花

      詞:金亨俊
      曲:洪蘭坡

垣根に咲いた鳳仙花
お前の姿が痛ましい
長い長い夏の日に
美しく花ひらくとき
花も恥じらう乙女らが
お前とたのしく戯れた

いつのまにか夏がゆき
秋風そよと吹いてきて
美しかった花ぶさを
見るも無残にむしばむと
散り落ちながら萎れゆく
お前の姿が痛ましい

雪降る冬の北風に
お前の姿消えようと
平和の夢を見続ける
その魂はここにあり
うららかに吹く春風に
よみがえる日を待ち望む

   (訳:船津 建)

鳳仙花この詩を言葉どおりに受け取れば、鳳仙花という花が、夏に咲き誇り、秋に散り、冬に姿を消して、春に再生するという、四季の移ろいの中での花の変化を歌ったものだ。詩の書き出しで早くも(第1節第2行目)その花の姿が痛ましいと悲劇的運命が予告されるがその内実はまだ不明だ。しかしそのすぐ後では、夏の盛りに少女たちがその花びらで楽しく戯れている様子が描かれる。具体的な描写はないが、これは少女たちが赤い花びらを摘み、明礬と一緒につぶして、夜寝る前に指にのせ、布で縛って爪を染めることを示している。中国、韓国、日本で昔から行われていた化粧法である。

この少女たちの姿はしかし秋になるともう消えている。ここで初めて具体的に秋の風に吹かれて散りゆく姿が「痛ましい」と説明されるのだ。しかしここに一つ気になる言葉が使われている。第2節4行目の「むしばむ」と訳した語だ。その原語は 침노하다 で、他に何と「他国へ不法に侵入する、他国の領土を奪う」という意味がある。作詞者は掛け言葉のようにこの語を用いているらしい。すると「痛ましい」のは花にたとえた朝鮮民族のことではないか、という推測が浮かんでくる。
第3節まで読み進めて初めてこの詩のテーマが明確になる。今は冬の時代、鳳仙花(朝鮮民族)は滅び去ったかに見えるが、その魂は弾け飛んだ種子となって生き続け、春が来れば再び芽を出す。その再生(解放)のときを待つ作者の確信が高らかに宣言されている。
以上みてきたように、四季の移ろいを花に託して述べ、しかもそこに寓意をこめている。「むしばむ」というたった一言からそこまで読むのが決して飛躍でないことは、この歌の作られた時代や作者の経歴、その後の受容の歴史などを見れば明らかになる。
その前に定型詩としてのこの詩の韻律的な特徴をみてみよう。原詩は1行4音節+4音節の構成になっており、これは全3節18行にわたってまったく変わらない。作曲の際は基本的に1音節に1音符があてられる。朝鮮語の1音節は「母音」、「母音+子音」、「子音+母音」、「子音+母音+子音」のいずれかからなるので、日本語のようにほとんどの音節が母音で終わる言語と根本的に異なり、むしろ英語などと似ていると言える。したがって翻訳の際も意味を忠実に追うと日本語の音節数の方がはるかに多くなり、原曲で歌うことは不可能だ。原詩の意味をある程度残しながら日本語で歌えるように訳すことは至難の技であり、明治以来西洋の歌の紹介においてもこの点に多大の工夫が凝らされてきたのである。
1行4音節+4音節は朝鮮伝統の音律形式で、日本であれば七五調のようなものである。拙訳では、意味をほぼ忠実にくみ取りながらしかも韻文調にするために七五調を採用してみた。しかし1行の音節数を合計してみれば分かるように、原詩8に対して翻訳は12となっている。これが朝鮮語や西洋の歌を翻訳する際の限界線なのである。

ホン・ナンパ続いて詩の内容理解のために時代背景を見てみよう。この曲はもともと1920年に洪蘭坡(ホン・ナンパ)によって作曲された『哀愁』というバイオリン曲だ。その旋律に1925年、彼の音楽仲間金亨俊(キム・ヒョンジュン)が詩をつけたのである。洪蘭坡は1918年、東京音楽学校(現東京芸術大学)予科に入学したが、翌年の三・一独立運動を支持したことで1920年の本科進学を拒まれた。後に(1926年)東京高等音楽学院(現国立音楽大学)に入り、新交響楽団(現NHK交響楽団)で第一バイオリン奏者を務める。帰国してからは、西洋音楽の演奏家、指揮者、音楽評論家、歌曲・童謡・大衆歌謡の作曲家として多方面に活躍した。しかし1937年、アメリカ留学中(1931〜33年)に独立運動に加担していたとの嫌疑で収監され、そこで受けた拷問で持病が悪化し、1941年、43歳で死んだ。

『鳳仙花』が広く知られるようになったのは、蘭坡の死後1942年に、日本留学中のソプラノ歌手金天愛(キム・チョンエ)があるコンサートで歌い、後にレコード化されてからである。哀愁を帯びたメロディーと民謡調のなかにも寓意を秘めた歌詞で大衆の心をつかむと、当局はこのレコードを販売禁止としたばかりか、この歌を歌うことさえ禁じた。それは取りも直さずこの歌が植民地支配者にとって不快かつ危険であったことの証しであろう。ここで金天愛の歌唱を聴いてみよう。


歴史はときに皮肉を好むものだ。「抗日」精神のシンボルとなったこの歌の作曲家は、死後60年以上もたって「親日」の烙印を押されることになるのだ。2004年、盧武鉉政権下で「日帝強占下反民族行為真相究明に関する特別法」が成立し、翌年「親日反民族行為真相究明委員会」が発足、親日派の公式名簿が作成された。そのなかに洪蘭坡が含まれていたのである。1937年の収監中に「転向」した蘭坡が、その後天皇を称える歌を作曲したというのが理由である。その故郷京畿道はもちろん、南北問わず全土で敬愛されてきたこの作曲家が「親日派(売国奴)」とは。彼の『故郷の春』や『鳳仙花』を唱和していた人々が突如引き裂かれることになる。まさしく「痛ましい」限りであった。蘭坡の子孫が裁判に訴え、有利な判決が下ったこともあって2009年、真相究明委員会の最終名簿1005名のなかから、とりあえず蘭坡の名は消えた。
このような歴史の経緯に対して、ひとりの日本人としていかなる論評も加える資格はない。ただ、なぜ戦後60年もたって敢えて親日派追及が行われたのか、その理由については知りたいと思う。「親日派」とはとりもなおさず日本人に関わる問題でもあると考えるからだ。20年近く前、『鳳仙花』の歌を知ってそのメロディーと歌詞に魅かれ口ずさんだぼくは、親しくしていた韓国人の友人に「日本人には歌ってほしくない」と言われて衝撃を受けたことがある。それ以来ずっとこの歌はぼくにとって気にかかる存在だった。
反共を国是とする政権が長く続いた後登場した金大中大統領は、太陽政策でまず反共のくびきから国民を解放した。続く盧武鉉大統領の親日派追及は、解放直後の米ソ冷戦構造開始のために着手できないまま今日に至った「親日派清算」を果たさずして韓国に真の民主化は到来しないとの信念から始まった。そもそも日帝から解放されたはずの韓国になぜ親日派が生き残っているのだろうか。
アメリカは38度線の南側を軍政の下に置いたとき、日帝時代の警察組織をそのまま引き継いだ。ソ連と覇権争いを展開する上で目先の利益を優先したのである。これにソ連軍が進駐した北から逃げてきた親日警察官が加わり、彼らは親日の負い目を跳ね返そうとするかのように反共姿勢を強めた。その典型が済州島四・三事件における彼らの残虐な振舞いである。日帝時代に独立運動家を拷問した手法を今度は「アカ(パルガンイ)」狩りに発揮し、武装蜂起した者たちの最大の敵は軍よりもむしろ警察と言われるまでになったのである。
しかしこの親日派追及に対しては、その必要性を十分に認める歴史学者でさえ行きすぎを憂慮している。基準が厳格すぎる、独立運動家を密告、逮捕、拷問、虐殺した者は決して許せないが、その他の親日行為者で反省、告白、謝罪した者は大目に見るべきだと言うのである。この学者の見方からすれば、解放前に死んでしまって、反省も謝罪もしようのない洪蘭坡は免罪せざるを得ないということになるだろうか。
鳳仙花という歌は、ただひたすら「奪われた野にも春は来るか」(李相和の詩句)という思いで作られたものであるだろうに、誕生から80年以上の間、時代の波にもまれながら歌い継がれてきた。そしてそれは今韓国や北朝鮮で愛唱されるだけではない。この日本の地でも、この歌の心を大事にしながら日本人によって歌われている。その例をひとつ紹介したい。

恨之碑沖縄県読谷村に2006年、「恨之碑(はんのひ)」という記念碑が建てられた。太平洋戦争中沖縄にも1万人近い人が朝鮮半島から「軍夫」として強制連行され、荷役・陣地構築・砲弾運びなどの雑役を(読谷では特攻艇の穴掘りも)させられていた。その内の生きて帰った人が非業の死を遂げた同胞のために、沖縄の彫刻家金城実さん制作のレリーフを、1999年韓国慶尚北道英陽郡に建てた。それと同じものが「『アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑』建立をすすめる会」によって沖縄の地に建てられたのである。

この会は準備段階で「てぃんさぐとポンソナの会」という学習会を開きながら、運動を推進したそうだ。有名な沖縄民謡『てぃんさぐぬはな』は「鳳仙花は指先に染め、親の教えは肝に染めよ」という教訓歌だが『ポンソナ(鳳仙花)』の方は、叶えられない願いが胸の奥に溜まっていく「恨」の歌であり、同時にまたその恨がやがて一挙に解き放たれる「恨解き」の歌でもある。沖縄の被害を語る自分たちが、朝鮮から連行された人たちに対しては加害者であったことを痛切に省みて歌われたという。「平和の礎(いしじ)」には沖縄戦犠牲者24万名の名が刻まれているが(その内朝鮮半島出身者は2010年現在447名)、そこに名を刻まれない「慰安婦」と呼ばれた女性たちへの思いもこめて、この「恨之碑」には「やがて固く結んだ鳳仙花の種が弾け 相互の海を越えて花咲くことを信じて」との言葉が彫り込まれている。ぼくは2010年に定年退職するまで毎年2月に学生たちと沖縄スタディツアーを実施していたが、この碑ができてからは必ず訪れた。碑の前で韓国からの留学生に鳳仙花を歌ってもらったものだが、それは鎮魂歌のように響いた。

『鳳仙花』は韓国音楽史においては最初の芸術歌曲と位置づけられている。したがって金天愛以降もソプラノ歌手によって第3節まで歌われることが多い。しかし一方でほとんど民謡か唱歌のようにも受け取られ、あらゆるジャンルの歌手たちによって歌われてきた。その場合は第2節までで終わるのが普通である。日本では加藤登紀子が早くに金護経という人の訳詞(というより作詞)で歌っている。しみじみとして美しい歌唱だが、日本語訳詩の宿命を逃れられず、歌詞に原詩の内容は一部しか反映されていない。第3節は「赤いほうせん花 お庭に咲いたよ やがて夏去り 秋風吹けば かわいい娘は 爪先染めたよ」となっていて、最も重要な寓意は消えてしまっている。ここで今度は現代韓国を代表するソプラノ歌手ジョ・スミ(조수미)の歌唱を聴いてみよう。創唱者金天愛から70年近くをへた聴き比べも一興であろう。



ぼくはこれまでジョ・スミの他にも何人か現代のソプラノ歌手がこの歌を歌うのを聴いたことがあるが、その都度不思議に思うことがある。みんな一様に第1節5行目の시と씨をどちらもshiの音ではなくsiと発音するのだ。日本人も英語を学ぶ時、例えばsheとseaの区別に最初苦労するが、洋楽を学ぶ韓国人たちも同じ苦労をしたあげく、いわゆるhypercorrection(過剰修正)をしてしまっているのではないかと推測する。その点クラシック以外のジャンルの歌手にはそんなことは見られない。

メン・ユナこれまでぼくは一時日本でも活動していた李成愛(イ・ソンエ)、文珠蘭(ムン・ジュラン)、趙容弼(チョ・ヨンピル)といった歌手たちの歌唱を聴いてきた。どれもそれぞれ味があるが、何かぼくの求めるものと微妙に違って、もやもやが晴れない感じだった。しかし8年前釜山のCDショップで偶然目にして購入した1枚でやっと恨が解けた。韓国で2010年1月に発売された맹유나(メン・ユナ)という女性歌手のアルバム《THE PEACOCK》に『鳳仙花』が収録されていたのだ。その歌唱はまさにぼくのイメージ通りだった。それにしても驚くべきは、弱冠19歳のこのシンガー・ソングライターが、記念すべきデビュー・アルバムに、現代風のオリジナル曲にまじえて『鳳仙花』を取り上げているという事実である。そこにもこの歌のもつ不思議な力を感じずにはいられない。今のところYouTubeにはまだアップされていなくて聴いてもらえないのが残念で仕方がない。


*この記事は『リベラシオン』no.141(福岡県人権研究所発行 2011年3月)に掲載したものを一部変更している。

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