日本歌曲 『初恋』〜啄木の『一握の砂』より

  • 2019.05.01 Wednesday
  • 16:00
日本歌曲と言えばまず浮かぶ詩人は北原白秋、彼の詩に作曲された曲は膨大だが、そのうちかなり多くが今も歌い継がれている。しかし白秋の1歳年下の啄木(1886年生まれ)の詩に作曲された歌曲となると一般にはあまり知られていないのではないだろうか。今日は、今でもクラシックの歌手によって時どき歌われる『初恋』という、啄木の短歌による歌曲を取り上げてみよう。啄木の処女歌集『一握の砂』(1910年刊行)に収められている歌1首に、越谷達之助が1938年に曲を付けた。啄木はこの歌集で短歌を三行書きするという斬新な手法を用いている。初版本の表記どおりに下に挙げよう。

 砂山の砂に腹這ひ
 初戀の
 いたみを遠くおもひ出づる日

では日本歌曲の歌唱では独自の境地を切り開いたソプラノの鮫島有美子さんの演奏で聴いてみよう。ピアノ伴奏は夫君のヘルムート・ドイチュ。



内容はもちろんメロディーも親しみやすいのでもっとポピュラーになってもよさそうなのに知る人は少ない。なぜか考えてみたが、思い当たるのはひとつ。啄木の短歌は三十一文字できわめて簡潔であるのに、作曲に際してそれでは短すぎるのでリフレインを多用し、何とか1曲の歌に仕上げている。そのため聴いていて冗長な感じが否めない。
そこでぼくは戯れに改善案をひとつ考えてみた。
まず、すっきりと通しで1番を歌う。次の「初恋の痛みを遠く遠くおもひ出づる日」のリフレイン部分は歌わず、そのまま2番として啄木の同じ歌集の中の次の1首を歌う。
 
 頬(ほ)につたふ
 なみだのごはず
 一握の砂を示しし人を忘れず
 
続けて3番に次の1首を持ってくる。

 いのちなき砂のかなしさよ
 さらさらと
 握れば指のあひだより落つ

そして最後に「初戀のいたみを遠く遠くおもひ出づる日」とリフレインする

こうすれば各節に砂が登場して三つの節につながりができると同時にストーリー性が生まれ、抒情的な旋律と相まってぐっと引き締まると思うがどうだろうか。「さらさらと指の間より落つ」るのは啄木の詠んだ歌でもあり、初恋の思い出でもあるだろう。もっと言えば砂時計のように落ちゆく時間でもあり、生命(いのち)そのものであるかもしれない。それほどはかないものとして詠んだ歌はしかし、その含意の重層性ゆえに百年以上の歳月をへてもなお我々の胸を打ち続けている。
伝記的なことを考えれば、ここでいう「初恋」の対象は後に妻となる堀合節子でお互い13歳の時に始まったと言われる。したがって「痛み」とは失われた恋の痛みではなく、結婚して生活苦にあえいでいる現在の心の痛みだと解釈する人もある。いずれにせよこの一連の「砂の歌」は函館大森浜を歌っており、現在そこには啄木の歌碑が立っている。

同じ曲を今度は森麻季のソプラノ独唱で聴いていただこう。



森麻季さんはその実力からして間違いなく今の日本を代表するソプラノ歌手だろう。ただひとつ残念に思うことがある。韓国歌曲『同心草』や『つつじ』のところで紹介したソプラノ、カン・ヘジョンさんと比べるとよく分かるのだが、歌う時の立ち姿が気になる。森さんは体を大きく揺らしながら、やや過剰とも見える思い入れを込めて歌っている。甘さとほろ苦さの入り混じった啄木の歌がごってりと味付けされてしまっているように感じられる。一方、カン・ヘジョンさんの方は背筋を伸ばしてすくっと立ち、りきんだ表情はおくびにも出さない。彼女自身がラジオのインタビューで「あるとき自分の歌う姿を見て愕然とし、それから意識的に訓練したのだ」と語っていたのが印象的だった。もうひとつはドレスだ。本人のセンスと言ってしまえばそれまでだが、カン・ヘジョンさんはおそらく専属のデザイナーを抱えているのだろう。いつも色、デザインとも独創的な上にシックで舞台姿を引き立てている。髪型や化粧法にも学ぶべき点があると思う。森さんの歌唱力からしてこのままでは惜しい気がする。

啄木歌そのものから話題がそれたが、最後に啄木と白秋という二人の歌人、詩人について少し触れてみよう。左の写真は啄木23歳、『一握の砂』刊行の2年前、1908年のものだ。この年彼は北海道での新聞記者生活に見切りをつけ、創作活動に専念すべく家族を函館に残して単身上京した。しかし小説家としては芽が出ず、生活のために翌年朝日新聞の校正係となる。妻子を呼び寄せたが生活は困窮した。小説は売れなくてもその苦悩の中で短歌はまるで湧きあがるように生まれ出た。東京では、それまで浪漫派詩歌の砦的な役割を果たしてきた『明星』(与謝野鉄幹主宰)を通じてかねてから名前を知っていた詩人、歌人たちと交友を深めた。さらに森鴎外の文学サロンに出入りするようになり、鴎外にもその文才を認められた。そのサロンのメンバーでもあった白秋とは新たな詩誌『スバル』の中心的存在として互いに才能を認め合う仲だった。しかし二人の資質の違いもまた明確で、啄木は明治41年(1908)9月10日の日記に白秋についてかなり突っ込んだ記述を残している。そこで啄木はきらびやかな言葉を駆使した『邪宗門』よりも白秋の第二詩集『思ひ出』の「断章」の方に時代に即した詩の可能性を見ている。


白秋右の写真は白秋が処女詩集『邪宗門』を刊行した明治42年(1909)、24歳の時のものだ。いかにも福岡柳川の豪商の長男に生まれ、早稲田大学英文科に学んだ人らしく見える一枚ではないか。上の啄木の写真と同じ時代とは思えないほどだ。白秋は『邪宗門』の2年後には詩集『思ひ出』を発刊し、この2冊で詩壇の寵児となった。他に童謡・民謡の詞として作られたものも数多い。岩波文庫に『白秋愛唱歌集』という1冊があり、約60曲の歌が収められているが、その多くはなじみ深いものだ。「城ヶ島の雨」、「さすらいの唄」、「ちゃっきり節」、「雨」、「赤い鳥小鳥」、「揺籠のうた」、「砂山」、「からたちの花」、「ペチカ」、「待ちぼうけ」、「この道」、「すかんぽの咲くころ」、「雨ふり」、と挙げて行くときりがない。その白秋が大正15年(1926)『啄木のこと』と題して書いている文のなかに次のようなくだりがある。「彼の死の一年前、私は思いがけなく浅草のルナアパアク園庭で彼と邂逅したことがあった。彼は私を見てやァと顔をかがやかした。しかも固く握手をしながら口疾(クチバヤ)に二人はしゃべった...二人はメリー・ゴー・ラウンドに乗った。彼は前の木馬にまたがった。私は後ろに跨って、楽隊が囃し立てると回り始めた。幾回か回るうちに彼はふと後ろの私を振り向いて叫んだ。『北原君、何か面白いことはないかなァ。』私は笑い出した。『そう来るだろうと思ったよ。』彼は私とまた顔見合わせて声をあげて笑った」。
この時のことを詠んだ歌を啄木も歌集『一握の砂』(1910年刊行)に収めている。
  久しぶりに公園に来て
  友に会ひ
  堅く手握り口疾(クチド)に語る


初版本左はふたりの処女詩集それぞれの初版本(復刻版)だ。本の装丁がその時代のふたりの作風や境遇をそのまま表しているようで面白い。明治時代末期の日本を代表する若きふたりの詩人が、互いに相手の文学や人となりについて書いている文章を読むと、時間こそ短すぎたが深く響き合った魂の交流が伝わって来る。そしてそれから一世紀を隔てた今、改めてふたりの作品を読んでみると、詩の生命といったことを考えざるをえない。啄木の歌や詩は古びるどころか現代文学そのものだ。一方白秋の『邪宗門』は今では文学史上の一記念碑的詩集と位置づけるのが適当で、現役として生きながらえているのは彼の童謡・民謡の方だろう。そしてそれはおそらく今後もずっと歌い継がれていくに違いない。
コメント
啄木と白秋、興味深く拝見しました。
人が一生懸命生きた時代のことが偲ばれます。
森さんへの率直な意見もなるほどと思いました。
いつも楽しみです。
  • コスモス
  • 2019/05/02 10:38 AM
森さんにぼくの意見が届けばと思うのですが、余計なお世話と言われるでしょうね。啄木とハイネはいつもぼくの心の片隅にあって何か訴え続けてくれる存在です。
  • heinrich
  • 2019/05/03 10:41 PM
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