朝鮮の歌 『セヤ セヤ パランセヤ』(鳥よ鳥よ、青い鳥)

  • 2019.08.26 Monday
  • 11:00
今日聴く歌はわずか4行の素朴な詩と民謡風の曲調ながら、深い寓意が込められたものだ。まずは原詩とそのカタカナ読み、ぼくの訳をあげてみる。

새야 새야 파랑새야

새야 새야 파랑새야
녹두밭에 앉지 마라
녹두꽃이 떨어지면
청포장수 울고 간다


セヤ セヤ パラン セヤ

セヤ セヤ パラン セヤ
ノクトゥ バッテ アンチ マラ
ノクトゥ コッチ トロジミョン
チョンポジャンス ウルゴガンダ



鳥よ鳥よ青い鳥

鳥よ鳥よ青い鳥
緑豆(ノクトゥ)畑に降り立つな
緑豆の花が散ったなら
青餔(チョンポ)売りが泣いて去る

*青餔  緑豆の粉をゼリー状
に煮固めた食品

(訳:船津 建)

世界的なソプラノ歌手スミ・ジョーをはじめいろんな人が歌っているが、ぼくが紹介したいのはチャウリム(紫雨林 자우림)というKポップグループのボーカルだったキム・ユナ(金倫我 김윤아)のソロデビューアルバム(2001年)に収められた演奏だ。



詞は1行4・4音節の構成で、これは『鳳仙花』と同じく伝統的な朝鮮の民謡調だ。全4行でわずか32音節からなる非常に短い詩で、一読したのでは何のことだかよく分からないだろう。しかし成立した年代と「緑豆」という語が、この歌の朝鮮近代史におけるある重要な人物を歌ったものだと告げてくれるのだ。
終戦直後生まれの我々世代は高校の歴史で「東学党の乱」というものを学んだ。もちろんごく表層的にであったし、その後20年間は内容について何一つ新たに知ることも考えることもしないまま言葉だけが記憶に残っていた。それが三十代も半ばを過ぎて隣国の言葉を勉強し始めてから歴史についても少しずつ学ぶようになった。その過程で「東学党」と名乗る団体があったわけではないのでその用語自体適切でないとか、「乱」というのは当時の権力側から捉えた表現なのでこれも今は使われないということを知った。この一つを取って見ても受けてきた歴史教育には数え切れないほど多くの矛盾や問題が潜んでいることが想像できる。
今ではふつう「東学農民運動」あるいは「甲午農民戦争」と呼ばれている1894年の朝鮮全羅道農民蜂起の指導者が、実は上の民謡の主人公なのだ。その名は全琫準(전봉준 チョン・ボンジュン)、小柄だったために緑豆将軍と呼ばれ敬愛されたという。また一説では緑豆は彼の幼名だったともいう。
東学とは西学(キリスト教)に対抗して儒教・仏教・道教などを一つにし、あの世ではなく地上に天国を築こうという志で崔済愚(최제우 チェ・ジェウ)によって1860年に創始された宗教だ。朝鮮王朝末期の中央や地方役人の横暴に苦しむ民衆の間で瞬く間に信者を増やしたために邪宗とみなされ誕生の4年後には教祖の処刑という弾圧を受けることになった。しかしそれでも東学の灯は消えず、二代目教主の崔時亨(チェ・シヒョン)をはじめ全琫準などの指導者に受け継がれた。日本でも江戸時代には百姓一揆が起ったが、19世紀後半の朝鮮でもあちこちで農民の反乱が起った。とくに1894年2月、全羅道古阜(コブ)郡で大規模な農民の反乱が発生した。勝手な名目で税制を新設し取り立てる郡主の横暴に民衆が耐えかねたのだ。その主張自体は認められたが農民を煽動したという理由で東学が弾圧を受けた。そこで全琫準らが各地の指導者と連携して決起したので大規模な農民戦争に発展し、5月末には全羅道の中心都市全州(チョンジュ)を占領するにいたった。坐して死を待つより命がけで闘う方を選んだ農民の意外な力に怖れをなした政府は、清国に援軍を要請する。その機会をとらえて日本も頼まれてもいないのに過大な派兵を企てる。ことここに及んで農民軍は外国の軍事介入を避けるためにいくつかの改善要求を盛り込んだ和約を政府との間で結ぶ。政府は日清両軍の撤兵を求め、清国もそれに沿う意向を示すが、元々これを契機に朝鮮への進出を狙っていた日本軍はそのまま居座る。そもそも朝鮮から応援兵派遣を求められた清国が2500名を派兵したのに対し、要請もされていない日本は居留民保護の名分で4000名派兵したうえ、農民軍が全州和約後解散したにもかかわらず撤兵しなかったのだから狙いは明らかに別にあった。清国の宰相李鴻章からのお互いに撤兵しようという呼びかけに応えないどころか、日本側が次に打った手は驚くべきものだった。清国軍を追いだすよう朝鮮政府から依頼を受けるべく、王宮に押し入って国王高宗(コジョン)を虜にし、その父大院君(テウォングン)を担ぎ出した。そして金弘集(キム・ホンジップ)傀儡内閣を誕生させる。その上で朝鮮の自主独立を守るという大義名分のもとに清国と戦いを始める。1894年8月1日のことだった。日清戦争と言っても当初は朝鮮の国土や海上が戦場となった。

전종준こういった状況に対して全琫準たちは同年10月9日再び蜂起した。翌年4月までの5ヶ月間、13万人を超える農民が参加したが、近代兵器を備えた2700名の日本軍、2800名の朝鮮政府軍は農民軍をせん滅した。この渦中12月には全琫準が、賞金に目のくらんだ一地方民によって捕えられ日本軍に引き渡された。そして翌年3月に処刑されたのである。左の写真は戸板に載せて運ばれる全琫準だ。彼を運んでいるのが朝鮮の役人や軍人らしいことによけいに胸が痛む。

緑豆将軍彼は緑豆将軍の呼び名通り小柄だがこの写真の通り鋭い眼光が印象的だ。助命の条件として日本軍への協力を持ちかけられた全琫準は笑って拒み、さらし首になったという。彼が最初に蜂起した全羅北道古阜には「無名東学農民軍慰霊塔」というものがあり、さらし首を想わせる顔が浮彫りされた石塔がいくつも立って、訪問者が立ったままあるいはひざまずいてハグできるようにしてあるそうだ。

ここでもう一度歌に戻ろう。ここに挙げた歌詞がもっとも一般的だが、ほかにもいくつかバージョンがある。東学の運動家で全琫準の同時代人であった呉知泳(オ・チヨン)という人の『東学史』(梶村秀樹訳 1970年 平凡社東洋文庫)にはこれとは別に2種類の歌詞が載せられており、1880年頃から流行り始めた梨畑の鳥を追う歌だったものに全琫準の幼名「緑豆」の詩が付けられたと解説されている。金素雲(キム・ソウン)『朝鮮童謡選』(岩波文庫)には「鳥よ鳥よ」で始まる歌4篇が紹介されているが、そのうち2篇に緑豆が登場する。歌の寓意については次のような説明が一般的だ。青い鳥は日本軍のこと、明治の軍服は青かったからだ。緑豆の花が散るとは全琫準が死ぬことであり、その命は革命の魂と重なる。続いて緑豆畑は農民、チョンポジャンスは民衆と解釈される。
このような寓意を胸に刻んでもう一度演奏を聴いていただきたい。一種の鎮魂歌と聞こえないだろうか。

最近古代史に関心が深まり、しきりにいろんな本を読んでいる。すると明治維新から1945年の敗戦までの80年足らずの短い期間は、長い日本の歴史の中でもきわめて特殊な時代であり、そこで失われたものがたくさんあるという思いがつのる。栄光の明治などと賛美するのでなく、その光と影をしっかり見つめることこそがこれからのこの国の進路にとってきわめて重要なことなのだと痛感する。この短い歌一つからでも考えるべきテーマは無限に浮かび上がって来る。幕末から明治初頭にかけての思想家たちの果たした役割も重い課題だ。吉田松陰や福沢諭吉は無条件に日本の偉人伝に連なる人物と思われがちだが、征韓論や脱亜入欧の提唱者としてみる時、まったくちがう顔が見えてくるのだ。日は暮れかかっているのに道はまだまだはるかに遠い。




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